世界シリーズ・第二界 世界を売ってみませんか?

   



第三部 結(決)






 神居伊鶴(イヅル)
 彼は今から17年前に生を受けた。
 生まれた時の体重は平均的で特に障害を持つこともなく健康な体を持ち産まれてくることが出来た。
 神居家の長男として生まれ、神居夫妻の初めての子供だったこともあり愛情をたっぷりと受け育っていった。
 そして彼が誕生してから1年後、神居家にもう一人の子供、女の子が誕生した。
 しかし彼女はいわゆる未熟児で、母体から取り上げられた時点で既に衰弱(すいじゃく)していた。が、現代までの医学の進歩の結晶・保育器にすぐ入れられることで一命を取り留めた。
 神居美鵜(ミウ)の誕生がこれである。
 そんな困難の末に生まれた故にか、より一層溺愛(できあい)とすら言える愛情を注がれた。
 それで、伊鶴が疎外されることすらなかったが、それでも比較するなら美鵜の方が愛されていたといっても良いだろう。
 それは彼と彼女に自我が芽生えても変わらなかった。
 普通なら伊鶴は親を取られたことから妹を(うと)ましく思ってもいいはずなのだが、彼の性根がまっすぐだったのか親のやることが正しいと思っていたのか、彼も両親程ではないが妹の面倒をちゃんと見始めた。
 そして美鵜も兄と両親の愛にこたえるように、成績良好とはいかないがまっすぐとのびのびと育っていった。
 伊鶴は小学校の学年を昇るに連れて学業良好そして体力健康、さらに妹のこともあってか面倒見もいいと教師や生徒の親のモノ覚えも良く、優秀な子供に育った。親の立場からしたら鼻が高い存在だろう。
 だが、それでも彼の両親は彼の妹の方により多く愛情を注いでいた。
 それもそのはず彼の妹は見た人が例外なく息をのむ人はいない程の美人、というより美少女に育っていた。髪を肩よりも下に長く伸ばしているのも、彼女の非現実的な雰囲気をひと押ししていただろう。当然ながら目立つ彼女は、学校でいじめにあうなどの悲劇も起こらず、むしろ友達たちの中心に立つ人望の厚さもあった。だが、昔から溺愛されていた家族の前ではかなりの甘えたがりで、そのギャップも両親のでき愛に拍車をかけた。
 家族は仲がよく、彼の妹も彼自身も反抗期というのは全くなく順風満帆な人生を送っていた。
 3年前までは。
 当時、伊鶴は中学2年生で地元から近い進学校に通っていた。そして美鵜も彼の後を追うかのように同じ中学に入った。そこでも伊鶴はそつなく学生生活を過ごし、美鵜も同級生からも先輩からも人気が出たりと平穏な日々であった。
 伊鶴と美鵜の人生が大きく狂う羽目となった夏休み、彼と彼女は部活の地区予選に参加する友人の応援に学園に遊びに来ていた。
 この学園は3年後にイヅルが副会長になる所だが、この時点では彼も彼女もこの学園の中等部にも所属していなかった。しかし、この学園は中高一貫という性質上のため設備がそこらの中学とはグレードが段違いの為に大会の地区予選などはここで行われるのである。
 そのために彼と彼女は普段なら絶対上らないだろう長い坂を踏破し、学園へとおもむいたのだ。
 そして見事予選を突破した友達と会い、相変わらず兄弟の仲が良いのをからかわれてそしてそのまま帰路についた。
 そしてそのまま家に辿り着く―――――――はずなのだった。
 友人が予選を突破したことを自分のことのように喜びはしゃいでいる美鵜。
 それは軽くいさめながらも苦笑いをしながら妹を見ている伊鶴。
 暗夜が近い黄昏時。
 はしゃぎすぎてガードレールの近くの端から離れたところを歩いてしまっている。
 その見通しの悪い地点で、学生が普段と違い全くいない夏休みに、道の真ん中よりで。
 スピードを出す車、いつもより注意しない運転手、予想しない場所にいる少女。
 そんな要素が重なり合って―――――――――――――――彼の妹はいなくなった。
 それから彼の取り巻く環境は急変した。
 彼の生活から妹がいなくなったのはもとより、家族全員で逃げるように目をそらすようにして別の街へ引っ越していった。
 しかし、その程度で溺愛していた家族の欠落を忘れられるはずもなく。(くし)の歯が一本欠け落ちるとどんどんほかの歯も抜け落ちるように、彼の家族は崩壊していった。
 両親のたった一人になった子供への愛は無いに等しくなり、それどころか夫婦間の熱も冷め、離婚し伊鶴は父親の方についたが父親は婿養子だったために「神居伊鶴」から「相坂伊鶴」へと名前が変わり、その父親とも不仲なまま別居生活を送ることになった。
 こうして彼の家族は回復が不可能なくらい粉々に砕け散ってしまった。
 これで伊鶴が両親に一番愛されることは完全になくなってしまった。
 伊鶴の人生は美鵜に両親を奪われ続けていったといっても過言ではない。
 そしてその3年後、彼の前に二度と出会うことがなかったはずの妹が現れた。
 そして今度は彼の『世界』(すべて)が奪われる。
 そして、彼は―――――――――――――



 彼と出会ったのは偶然だった。
 特別でも必然でもなかった。
 彼は唯一話せる相手だった。
 孤独感が薄れていった。
 彼は優しかった。
 危険だとわかっても触れてくれた。
 彼から『世界』を買った。
 指切りをするような軽い気持ちだった。
 彼と別れた。
 一抹の寂しさより再開への期待の方が大きかった。
 彼と再会した。
『世界』を手に入れた時とは比べ物にならないくらい嬉しかった。
 彼はショックを受けた。
 それでも彼は自分の所に戻ってくると信じて疑わなかった。
 彼は今――――――――――――


「――――――お兄ちゃん!」
 夕陽色に染まるガードレールと坂の中腹。
 そのガードレールの向こうの立つことすら難しい場所。
 そこにはオレンジ色に濡れたイヅルがいた。
「ミウ……………」
 どこか悲しげに、どこか切なげに。
 現実離れをした雰囲気を身にまとった少年がそこにいた。
 そんなイヅルに彼の妹は息をのんだ。
 奇しくもそれはイヅルとミウがここで出会った時と真逆のシュチュエーション。
「知っちゃった………か。あの先輩に聞いたんだろ」
 イヅルは血相を変えた彼女を一瞥(いちべつ)するだけで、事を看破した。
 どこか悟ったかのような。
「それで……お前はどうするんだ?」
 どこか諦めたかのような。
「どうする、って」
「もっと簡単に言うなら何をしに来たんだ?」
「………………………」
 何を、しに来たのだろうか?
 それはミウ自身にも分からない質問であった。
 何もわからないままに走ってきてしまったのだ。
 自分の気持ちも。
 そして、彼の気持ちも。
 一番分からないのはそれなのだ。
 イヅルの気持ち。
 何で彼は、自分のことを拒絶するのか?
 何故、彼は初めに会った時に自分との関係を話さなかったのか?
 自分は兄で、お前は妹だと。
 そうすれば話はここまでややこしくならなかっただろう。
 なのに彼は初対面の振りを貫き、現在に至る。
 理由が分からない。
「……………………………」
「分からない、か? まあ記憶が戻ってないなら仕方がないか」
 ミウが妹と発覚する以前よりも、はるかに鋭い視線をイヅルは向ける。
 他人という関係だった時よりも、妹という関係での方がきつく鋭かった。
「疲れたんだよ」
 鋭いままそう吐き捨てた。
「俺はお前から、生まれた時からずっと奪われつづけてきたんだ。玩具も菓子も愛も、そして両親も。
 わかるか、小さいころから親の愛情を満足に受けれす、妹ばっかりがもてはやされて、その妹がいなくなった後もその妹が原因で家族が壊れてしまって。
 家族というものを知らずに育ってしまった人間の気持ちがわかるか?
 いやお前にはわからないだろうよ、親の愛をたっぷりと受けて育ったお前にはな。だから俺は――」
 一拍置いて、胸の中から汚く吐き出す。
 恨み事を、呪い言を、憎み言を。

「俺は、お前が憎い。だから、自殺する。そして、
 今度は俺の苦しみをお前が味わえ―――」

「――――――うそ」
「信じられないか、でもそれが真実な」「そんなの嘘です」
「いや嘘じゃない」
嘘ですよ(・・・・)
 それはやんわりと子供に(さと)すような声で、ミウは淒んでいるイヅルに語りかける。
「あなたはそんなこと、思いませんよ」
「…………記憶もないくせに断定するのか」
「記憶がないからこそ、ですよ」
「…………………………」
「記憶がなくても、あなたが、イヅル君がそんな人ではないことくらい、わかりますよ」
 でなければ、
『相手のことばかり考えてても、人生、幸せつかみ損ねるぞ』
 なんて言わないし、危険だと解っている相手にそんな言葉をおくらない。
 そんな人ですらない存在に、初めて会う人間に。
 記憶がないが故にわかる、という皮肉。
 そして、
「イヅル君は『世界』(すべて)を売った時点では、契約の内容も『世界』の意味も知らなかったでしょ」
 知ってることは騙せても、知らないことは騙せない。
 今度は俺の苦しみを味わえ、なんて陳腐なセリフでは騙されない。
 そう指摘するミウと険しい表情のイヅル。
 数秒にしか満たない、それでも張り詰めた空気が漂う。
「―――――――――ははっ」
 それはイヅルの一転した、純粋な笑い声。つい先ほどまで自殺をすると言っていた人のものとは思えない。
「ははっ、自分でも穴だらけの理論だと思ったんだけど、一応悪あがきをしてみたんだが。やっぱりうまくいかないな」
 まるで、子供が自分の悪戯が可笑しくてつい吹き出してしまったかのよう。
「あらためて――――――久しぶり、美鵜(ミウ)
 今までのが演技だったのか、先ほどの重い雰囲気は霧消し代わりに人懐っこいものになった。
 彼女が知っているイヅルだった。
 それに安心したのか、涙目になりつつミウはイヅルに駆け寄ろうとする。
「――――!! お兄ちゃ」
「待った。それ以上近づくな」
「え?」
 イヅルは片手を突き出しミウを制する。それに驚いたのか違和感を覚えたのか彼まであと3mで歩みが止まる。
「タネ明かし、というかネタ明かしをしようか。と、いってもこういう時の作法とか全く知らないからなぁ。どうすっかね」
「何、言ってる、の」
 突然の脈絡がない意味不明な言葉。
 だからこそ、不吉な予感がした。
 まだ、自分が知らないことがある。
 それが今の平穏を壊してしまう違和感。
「聞きたいことない? あると思うんだけど」
 ミウが表情に戸惑いと怯えの色を浮かべているのに、気付いていないのかあえて無視しているのか泰然としてふるまうイヅル。
 ミウは決心したのか毅然とした表情で問い詰める。
「なんで、初め会った時に、言ってくれなかったの―――」
 あの夕暮れの坂で。
「―――兄妹だって」
『世界』がこの話の核ならそれが、この話の要。
 あの時イヅルが真実をミウに話していれば展開はもっと良い方向に向かっていたかもしれない。
 すくなくともガードレールを、境界線をはさんで兄妹が対峙するということはなかっただろう。
 妹が兄の『世界』(すべて)を奪うこともなかっただろうし、
 兄が境界線の向こうにいることもなかった。
 そうだ、何で今イヅルはガードレールの向こう側にいる?
 何で境界線の向こう側にいる?
 違和感の正体はこれだ。
 これじゃまるで、初めての時のリフレインだ。
 考えをめぐらすミウとは反対にイヅルは余裕気に微笑みながら、
 突き放す。
「結論を言うと、俺とお前はお別れだ」
「………………え?」
「俺は、お前を『妹』とは呼ばない。そして二度と『兄』とも呼ばせない」
 一度死んだ妹への、兄からの決別だった。
『世界』を奪っても自分のことを拒絶するはずがないと(思い返すと兄妹としての絆が残っていたのかもしれない)信じていた相手からの拒絶にミウは理由が分からず取り乱すしかない。
「な、何でそんなこと言うの?」
「………………………………」
「わ、私が『世界』をとっちゃったから? だ、だから怒っちゃったの? 嫌いになったの?」  
 ミウは親とはぐれた子のようにポロポロと涙をこぼす。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! せ、『世界』、返すから、そんな、そんなこと、言わないで!」
 彼女にとってイヅルは唯一の『世界』とのつながりといってもいい。
 一度死んで『世界』と切り離され孤独で狂いそうだった彼女を理解し曲がりにも救いだした本人で、一度死んでしまった不確かな存在である自分の「兄」という確固たる拠り所だ。
   そんな人から縁切り宣言をされたのだ。彼女の驚愕も仕方がないだろう。
 それ以前に、彼女は『世界』の売買を軽い気持ちでしたのだ。ただ気になった人とつながりを作りたかったから。
 だからこんな緊迫した事態になるとは夢にも思ってもいなかった。
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい」
『世界』を持つ優位があるはずのミウが『世界』を売ってしまったイヅルに謝る。
 そんなおかしなことではない。
『世界』とか優位や力なんて関係ない。だって、家族、なんだから。
 謝る時は謝るしかない。
 お互いに家族でいるために。
 そんなミウにイヅルは苦笑する。その表情は疲れきっていて、彼のような高校生のものではなかった。
「泣くなよ。別に責めてるわけじゃないんだから」
「じゃあ! なんで…なんでそんなこと言うの…………」
「これから説明するさ」
 イヅルはミウに背を向けガードレールに体重を預け(がけ)の方を、夕焼けの方を見る。
 血のような赤を見ながら続ける。
「………じゃあ、聞いてくれるか?」
 イヅルは語り始めた。彼の視点からの本当を。
 

 家族は瓦解(がかい)した。
 それはかなり早かった。美鵜の死から逃げるように別の街へ引っ越して半年もなかっただろう。
 引っ越した時点で既に家族の体をなしてなかった。
 母親は淡々と家事をこなす以外は自室に引きこもり、父親は仕事に没頭し家には寝るためだけに帰ってきた。
 家には美鵜の仏壇もなかったり、彼女の食器や家具すらもなくなっていたりと、彼女がいた痕跡(こんせき)はまったくと言っていい程なくなっていた。
 その状態は美鵜がまだいた以前の家族を知る人から見たら絶句するしかないほど、壊れていた。絶句した後、長女が死去した悲しみに耐えられなかった、と同情するだろう。
 しかし、伊鶴はそう思わなかった。
 美鵜の私財を大は机から小は歯ブラシに至るまですべて棄て、家族同士もあまり関わらなくなった。
 伊鶴にはその両親の姿は「逃避」よりも「否定」に感じられた。
 彼女を忘れようとしているのではなく彼女をなかったことにしていると、そう思った。
 彼女が一生を過ごした家はなく、彼女が長年座った机はなく、彼女の成長の証である写真もなく、彼女が好きだった家族も、もうない。
 彼にはそれが死んだ美鵜を拒絶し、生きていた美鵜を否定している気がした。
 それは、とてつもなく嫌だった。
 だから伊鶴は誓った。
 俺だけは美鵜の家族でいる、と。
 例え悲しみで潰れそうになっても、例え家族が自分以外いなくなっても。
 彼女を忘れず、愛し続けよう。彼女の兄で、家族で居続けよう、と。
 そして3年の時が過ぎた。
 彼の予測通り家族は離散し、戸籍上で唯一?(つなが)っている彼と父親も別居し仕送りだけでの関係だけでお互い無干渉になった。
 それをいいことに伊鶴は元いた地元に戻ってきた。彼女が好きだったその街に。
 だからといって何も起こることはなく、死んでしまった彼女の為にできることなんて何もない。
 そんな日々を彼女がいないことを噛みしめながら苦しみながら悠然(ゆうぜん)と過ごしていた。

 そんなある日、伊鶴はとある女生徒に出会った。
 伊鶴が学園に転校してから数日後にあった1年生の新入生歓迎会で、彼女はこういった。
「わからないことがあったら聞きに来い。面白そうなことがあったら教えに来い。生徒会は生徒のために存在する。君達の力になろう。
 どんなことでもだ。
以上、生徒会長・嶺柄美祢湖(ミネコ)
 その後彼女は軽音楽部主催のゲリラライブで新入生歓迎会を乗っ取るという暴挙を成し遂げることによって新入生に強烈な記憶を植え付けた。
 それは新入生だけではなく転校してきたばっかの伊鶴もであった。
 正直彼の感想は、脳みそ()いてんのかあの女、というある意味まっとうな反応だった。
 事実、彼女は生徒会室をオカルト部として占領している変人として有名だったのだ。
 そんな彼女と二人きりで話す機会があった時に伊鶴はこう言った。
『生き返らせたい人がいるんです。手を貸してもらえませんか?』
 無理難題を吹っ掛けてやろうという些細(ささい)な悪意と(わら)にもすがるような些細な期待感から。
 別に本気で死んだ妹を生き返らそうなどとは思ってもいない。
 むしろ生き返るはずもないと確信していた。
 当たり前だ。ミミズだってオケラだってアメンボだって生きていれば不可逆的に死んでいく。
 だから逆に人を生き返らせる方法を探して、無いと結論を出すことで諦めたかったのだろう。
 彼女のことを。
 それとも単に美鵜のために何かしているという免罪符(めんざいふ)が欲しかったのかもしれない。
 彼の思惑を知ってか知らずか嶺柄美祢湖は
「そういう無理難題を待っていたんだ、というより持ってくる奴を待っていたんだ」
 などとのたまいながら笑った。多分いい話相手が現れたとでも思ったのだろう。
 そんな彼女に少しばかりの願い、というにもささやかで、(いの)りという程の小さすぎる希望を持ち彼女と伊鶴は知り合った。
 といっても彼女がネクロマンシーの生き残りや死者を(よみがえ)らせる超能力者、などということはなく、伊鶴は生徒会とオカルト研究会の副会長という雑用係を押し付けられた。
 その代わりに彼と彼女はいわゆる『死者蘇生(ししゃそせい)』の方法を模索していった。
 といっても一介の学生に実験やら解析やら科学的なことは一切できないので、思考実験だけにとどまったが。
 思考実験、などと言えば堅苦しいが要は、アイデアを出し合っていたのだ。例えば、『人は死んだら何処へ行くのか』『幽霊は存在するか』など。ここまでくると哲学(てつがく)の領域だ。
 当然そんな机上の空論に結果が出るわけがなく、予想通りと言うべきか期待外れと言うべきか、特に変化することなく日常は過ぎていった。
 そんな日々を諦観(ていかん)と美鵜への哀愁(あいしゅう)とともに過ごしていった。
 そのまま日々を過ごせばそのうち伊鶴は美鵜のことを忘れて諦め、自分の人生を謳歌(おうか)し彼なりの幸せを見つけたかもしれない。

 しかし伊鶴はミウと出会った。

 本当に心臓が止まったと思った。
 なびく黒髪。幼い顔立ち。
 あの時から時が止まったかのように何も変わっていなかった。
 自分の脳と目玉を疑い、
 そして、歓喜した。
 生まれて初めて居もしない神に感謝した。
 どこかで狂っただろう歯車を感謝した。
 普通ならあり得ない現実に感謝した。
 彼女が現れる因果法則に感謝した。
 自分にチャンスを与えてくれた幸運に感謝した。
 そして彼女のために何かしてやれる機会を作ってくれた全てに感謝した。

「――――――あれは、本当に、驚いた」
 一言一言噛みしめるようにイヅルは言う。彼は傾いてる太陽がまぶしくないのか夕焼けに目をやったままだ。
 ミウはそれにどう答えるべきかわからず黙るしかない。
「それで俺はまずお前の記憶の確認をした。どうやらお前は俺のこと忘れてるぽかったからな。どのくらい忘れているのか確かめようとした」
『俺のことは―――なんて呼びたい?』
『知らない人にお兄ちゃんなんて言っちゃダメだろ』
「そしてお前は何も知らなかった。だから俺もそういうフリをした」
 皆無どころか絶無だったはずの可能性が転がり込んできたのだ。慎重に慎重を重ねても足りないくらいだ。すべてをまだ明かすべきではないと思ったのだ。
 そして二回目の邂逅(かいこう)
 不敵に微笑むミウと違和感のある教室。
 そこで今回の真相をすべて把握(はあく)した。
 今のミウの状態。今のイヅルの状態。そして『世界』について――――――
「そして俺は――――――こう、考えた」
 今のこの状態について。
 人には触れられなかった。
 でも、扉には触れられた。
 服も通り抜けた。
 でも、地面を透り過ぎることはない。
 奪われたのは人と関われる権利。
 人間である権利。
 でも、生物、動物としての権利は、まだある。
 まだ、生きている。
 生きているなら、死ぬこともでき。
 つまり、自殺ができる。
 そして、 
 死んだ場合、普通の契約なら契約破棄だが、これは貸借契約。
 死んでしまえば、返せない。
 死んだ人間からは取り立てられない。
 何があっても。
 それは死者蘇生ではなく、死者復活。
「そのためなら、と俺は誓ったんだ」
 そのためにイヅルは()けた。
 人が払えるであろう、かけ値なしで最大の対価を。

「俺の――――――俺の『全て(せかい)』を賭けてもいい」
 
 皮肉にもあの契約は、あの時のミウにとって千載一遇のチャンスなら、イヅルにとっては空前絶後の唯一無二の機会だったのだ。
「――――――でも、いくつか不安要素があった」
 その中で一番のはミウが美鵜の記憶を取り戻す可能性があったこと。
 その兆候は2回目の邂逅の時にあった。
 イヅルが『世界』を売ってしまったと自覚した時。
 問題はそこではない。
 多少は驚き動揺もしたが、瑣末(さまつ)なことだ。
 一番の問題は、別れ際に彼女が自分のことを「お兄ちゃん」と呼んだこと!
 その直前に、その呼称は止めろといったはずなのに。
 記憶もないはずなのに。
 多分、兄弟の(きずな)とでもいうべき(つな)がりがあったのだろう。
 それが厄介だった。
「俺が死んだ後で思い出されたら、流石に手の打ちようがないからな」
 だからミウに嶺柄ミネコと出会ってもらい、インパクトのある真実の伝え方をしてもらったのだ。
「お前がまず俺が親しかった会長に会いに行くことは一目瞭然だからな。それを利用したんだ」
 イヅル本人が言うよりも、他人から伝えた方が信憑性やら衝撃は強いと思ったからだ。
 そして予測通りことは進み
「そこまでしても記憶が戻らなかった。ならおそらく戻らない、と俺は確信した」
 記憶が戻らないということは、壊れて変わり果ててしまった家族を見ても何も思えなく、責任を感じることもない。
 もし記憶があったならこの様を自分のせいだと思いこみ優しい彼女はまた死んでしまうかもしれない。今度は自らの手で。それを防ぐために彼女の記憶の有無を確認したのだ。
 そしてそれは彼女の、美鵜が愛した家族を守ることにも?る。
 ミウを守ることにつながる。

 
「―――それが、今まで俺がしてきたことだ」
 夕暮れの坂に風が吹いた。
 その風はイヅルの(ほお)を撫で、ミウの髪を舞いあがらせた。
 彼女の髪が乱れ舞うが彼女自身は何もしない。
 何もできず立ち尽くすだけだ。
「……………………………何で、そこまで」
 イヅルの兄妹愛というにはおおすぎる献身(けんしん)に呆然とするしかない。
 ミウが何もかもを忘れ一人で一喜一憂している間に、イヅルは何一つ忘れず彼女の為に生き続けていた。
 死んだ妹が忘れられない愚かな兄の話。
 そんな、そんな悲しい話を。
「だって――――――家族だろ」
 たったそれだけの言葉で片付けてしまうのか。
 イヅルは眼下の街を見つめている。それは最後の見納めとしてみているようにも、そこにありもしない家族を見ているようにも、何も見ていないようにも見えた。
 そしてイヅルは体をミウに向けることで、振り切るようにして視線を外す。
 それでミウが見ることができた彼の顔はどこかすっきりとした(さわ)やかさがある笑顔をしていた。
 これでこの話はおしまい、とばかりに眼前で手をぱんとたたく。
 この話のお(しま)いは、何を意味する。
「さて、少し喋りすぎたかな。ここらでこの話を終わりにしよう。別に大した話じゃない、兄が妹を助けるだけの、ごく普通の話だ。それじゃあ――――――」
「待っ――――――」
 ミウがお終いの意味に気づいた時にはもう遅い。
「ミウ」
 最後に、
 恨み言でもなく、
 呪い言でもなく、
 憎み言でもなく、
 ただ単に、兄から、妹への、普通の会話。
「勉強、ちゃんとしろよ」
「お兄――――――――」
 イヅルは体を後ろに(かたむ)け、落ちていく。
『世界』と関われないイヅルは、『世界』に(かえ)るために落ちていく――――――――

 ………………………………………………………………………………………………。
















 体が熱い。
 意識が浮かんだ時、まず、そう思った。
 血でもあふれて体にかかったのか、という考えも浮かんだがすぐに否定する。
 血はこんなにいい香りはしないだろう。
 鼻をくすぐる甘い匂い。
 目を開けると、小さい頭が俺の胸に顔を押し付け泣いていた。
「ばか………ば、か」
 そんな恨み事が聞こえた。
 呪い言でも、憎み言でもなく。
 俺はどう答えるか幾つか考えたが、結局やめて、ただ頭をなでた。
「ばか………」
 俺の体は彼女の腕の中にあり、彼女の体は俺の腕の中にあった。
 彼女の矮躯(わいく)じゃ止められないはずなのに。よしんば手をつかめたとしてもこちらの勢いを少女の体重じゃ止めきれないはずなのに。そういう計算があったはずなのに。
 ああ、そうか、とすぐに思いついた。
 境界線(ガードレール)だ。
 ガードレールが支点となって彼女を止め、そして俺を留めたのか。
 彼女がこちらに来るのを拒むように。
『世界』と切り離された俺だったが、まだ繋がっていたものがあったようだ。
「…………………死ねなかった、か」
 計画が失敗に終わったはずなのに、何故か顔がゆるむ。
 生きていることに対する安堵はしていない。
 でも、彼女がいることに安堵はしていた。
「死ねなかったじゃない! ばか! ばか!」
 すすり泣いていた彼女は顔を上げる。その目からより一層涙が流れる。
 有名なことだが涙の原料は血液である。血液を()し、9割は水で1割はタンパク質やその他栄養分で作られている。
 つまり泣くことは血を流すことと同じだ。血を流すことは生きている証拠だ。
 それでも彼女には血を流してほしくなかった。
 そっと指で涙をぬぐうと、傷口を広げたようにもっと流れた。
 それで気づいた。
 この血は俺が流させているんだ、と。
 この少女を傷つけてしまったのだ、と。
 これからどうすれば良いのだろう。自分が知恵を振り絞って立てた計画は彼女を傷つける結果になってしまったのだ。どうするべきか、わからない。
「どうすれば………いいかな」
 意図せずにこぼれた、彼女 に見せる初めての弱気を。
「知らない………!」
 彼女は。
「…………どうもしない、一緒に生きてく」
 受け止めた。
 死んだはずの彼女が、生きてくと。
「……そうだな、お前は生き、 」
 腕を思いっきり握られ、胸板に頭を強く押し付けられて止められた。
「ばか………!」
 その一言で全てが伝わった。
 彼女が泣いているのは、後悔と悲しみと安心。
 そして俺のため。
 詩的に言うなら、俺が泣けないから代わりに泣いてくれているのだろう。
 そんな彼女に愛おしさを感じ、彼女の涙を指で払う。
 元々俺の(たくら)みは成功しなかったのかもしれない。
 彼女が普通の女の子だと知っていたのに。相手から背中を押されないと「世界」を買えなかった彼女。そんな彼女が人の命を踏み台にして生きていける程強くないと知っていたのに。
 忘れていたのか、わざと忘れていたのか。
 彼女の頬を俺の指が撫でる。
 触れている所から彼女の脈拍がとくん、とくんと伝わる。
 見て、触れられる。
 それは生きているといってもいいのじゃないか?
 他人に触れられず、他人に見えない。
 でも、身内が触れて見えるのなら、それでいいんじゃないのか?
 俺が、彼女と話せ触れられるのならそれで充分じゃないか?
 俺は彼女に声をかけるために口を開く。
 拒絶されるかもしれない、そんなことはないと頭でわかってはいても声が震える。
 彼女がそんな俺に疑問を抱いたのか顔を上げる。
「俺と、一緒に生きてくれる?」
 彼女はこくりと首を振り、微笑んでくれた。
「――――じゃあ、一番最初にやらなきゃいけないことがあるな」
 無理矢理明るい声を作り、俺は言う。いつまでも妹にヘコんだ姿を見せられない。
 それに。
 思い出の中だけで生きていた妹が、俺の中だけで生き続けることになる。
 ただ、それだけの変化だ。
 彼女がいなくても地球は回り続けた。
 でも僕の『世界』は止まっていたのかもしれない。
 あの時から、ずっと。
 だからまた、彼女とともに動きだす。
 長い付き合いになるんだ。
 どうせなら、少しでも彼女を笑わせたい。
 それが今、俺が妹の為にできること。
 おちゃらけた感じで、俺は言う。

「世界を売ってみませんか?」



 ――――――――――――――――――――――――――Blood is thicker than water is END





 ここまで読んでいただきありがとうございました!
 感想や誤字脱字の報告がありましたら、コチラの「感想・連絡」からお願いします!
 お疲れ様でした!

戻る